私がどうして木を植えようと思ったのか?!
こんにちは。天海 和美です。
「天海さんはどうして木を植えようと思ったのですか?」とある時訊かれました。木を植えようと思うまで紆余曲折色んなことをやりました。地球の為に今、何が必要か?自分は何をしなければいけないのか?何をできるのか?とか。
地球環境問題について広く知ってもらおうと講演会をやるところから始めました。なるべくたくさんの人たちに知って欲しかったから。今やらないともう取り返しがつかなくなるし、未来の子どもたちが幸せに生きていくことは出来なくなるから。
すごく切羽詰まった感じで自分のことも家庭も犠牲にしてでもやりました。ほんと今から思うとかなりの”犠牲”でした。
そして必死にできる限りのことをやっても何も変わらない、むしろ悪化している、もう気候変動は治らないし、今後ますます酷くなるし猛暑、巨大台風、旱魃、水不足、或いは洪水など極端な変化で食糧不足になったり、生命の危機にも晒される、、、ってなんか自分のこと責めていました。
しかし、最近になって「できることはやった」とか「やりきった」とか、「自分なりに納得がいくようになった」のはここ数年のことなんです。
私が途上国で働きたいと夢を持ったのは高校生の頃からでした。進学して就職して経験を積んで留学して、それから途上国へ、、、と計画を立てていましたが。なぜか結婚してしまっていつしか夢も忘れてしまいました。いや、忘れたんじゃなくて諦めたんですね。
それで子どもも産まれて子育てに忙しくて、新しい仕事も夫と始めたりしてもうそんなことは考えなくなっていました。多分、、、。
ただその頃思っていたのは「私は自分がこの地球に産まれてきたのに何か大事なことを忘れているような、、、やっていないような、、、」そんな気持ちでした。
私はいつも家族が寝静まってから一人で部屋の窓から空を見上げてお祈りしていました。(多分それだけで他人から見たら変な人だと思う)
「世界が平和でありますように。みんな誰もが幸せでありますように」と、、、、。特に宗教はしていませんがなぜかお祈りをしていました。私は何もできない、、、今はできない、、、だから天に向ってお祈りするくらいしかできないと思っていました。
その頃の私はスピリチュアルから目を背けていましたし🤣。
それで父が末期ガンで余命わずか、、、と宣告されて私は渋々、、、、いや、もうこれはスピリチュアルな癒しをやるしか無いんだ、、、というところまできました。
それまでは他の人がやるのはいいけれど自分はスピリチュアルなことには絶対に関わりたくない、特殊な目で見られたく無い、普通に暮らしたいと思っていましたから。(結局それは私の思い違いだったと後でわかりました)
父が亡くなった時に私は自分らしく生きようと決意しました。
そこから地球環境問題の勉強を始めました。それで地域で環境のNGOを作りました。(小さな集まりです)
当時はそんな地球環境問題なんて意識している人はほとんどいなくて。東京でさえゴミの分別なくデパートは過剰包装がおもてなしだと思っているし。
だから森林破壊とか地球温暖化とか環境ホルモンとかエコとか循環型社会とか言っても「はぁ?何言ってんの?」って顔されるくらいで危機感がありませんでした。
え〜、でも今、私たちの生き方を変えて地球を破壊しないようにしないともう後がないんだよ〜、台風だって巨大化するんだよ。
気候変動で食べ物が作れなくなるんだよ、海面が上がって低地や海岸がなくなるんだよとか言っても「それはSFでしょ?」とか「自分が生きている時にはならない」とか言われましたね〜。
1995年頃の話ね。
でね、まずは自分の地域でできることから活動していこうって思って、それじゃ足りないから東京全体でとか、それじゃ足りないから日本全体でとか、いや、地球全体でやらなきゃダメでしょ、、、って私の思考と行動はどんどん広がっていったんです。
それで国際会議に行って色んな国の市民たちとも繋がりましょうよ〜とか、先進国首脳会議(G8サミット)とか国連の会議とかに行きましょうよ〜って提案して本当に行ってしまうわけです。
こんな基準じゃダメだよね、法律変えましょうよ〜とか言って国会議員とか大臣に会いに行って提言書出したり、外務省とか環境省のお役人に会いに行ったり、ニューヨークの国連本部に行ったり、地球サミットで国連事務総長に平和のメッセージを渡しに行ったりとかするわけです。
それ、、、フツーのおばちゃんの発想とはまるで違っていて多分「変わった人」だったんだと思います。
アフガニスタンの難民支援を現地で始めてしまったり、アフリカでHIVエイズのホスピスとか孤児院、ストリートチルドレンの支援を始めたりとか。ちょっと違ったことをしてきました。
タイでもHIVエイズ孤児の支援を始めたりとか、、、。
そう、そこで気がついたら高校生の時にやろうと思っていた夢がいつしかやっていたんですよね。
もう私は子どももいておばちゃんになっていましたが。
私は国連の会議に参加していましたがそれがとっても難しかったので、おばちゃんなのに大学に編入して「国際関係論」とか「英語」を学んでいました。
大学で教えている国際関係の講義に出席するとどれも基礎的なことばかりでした。実際の現場と大学の学びは違います。
そんな(変わった)経験があって「大学で環境活動とか国際協力とか支援の実際について教えてほしい」と言われたてそれがきっかけで教えることになりました。(もう一つの理系大学は最初断りました)
ところが、、、、教える矢先になって私はひどく落ち込むことになりました。これが何年も続きました。
だから私の仕事や人生が順風満帆で満足していたかといえば、全然そうではなくて常に試行錯誤、トライ アンド エラーでした。
だって私がやってきたことで世界は何一つ変わっていない、、、という現実を目の当たりにしたからです。
エイズはまだ拡大していたし、日本政府は気候変動枠組条約にすら調印しないし、アフガニスタンの空爆はずっと続いて、地雷が埋まっていて村にも帰れない、森林破壊は止まらないしとか、、、、。外から見たら「そんなこと」って思うかもしれませんが。
その頃の私にとって自分の命を削って本気で取り組んできたことで何も変わらなかったんだという虚しさだらけでした。
だから授業をするのが苦痛でしかありませんでした。
学生たちに希望を伝えたかったのに私自身がすごく暗くて敗北感と虚しさと無力感でいっぱいだったんです。
「結局、頑張ったけど何も変わらなかったよね。無駄な努力だった訳だ」って心の声に責められる。
そんなこと私だけの力でどうにもならないのは当たり前ですが周りのみんなも本当に頑張っていたし、世界中のNGOの人たちとかも本気で取り組んでいましたから。
あ〜、やっぱり地球の未来を変えようと努力したけど何の役にも立たなかったんだなぁ、、、、って思っていました。
でもね、、、それが少しづつ変わってきたんだ、、、という手応えを感じました。
あれから10年くらい経ってからでした。(この頃は国際協力・国際看護を教えていました。時代を先取りしすぎていてようやく世の中が追いついてきた)私たちがやってきたことが専門書の教科書に載っていました。
それを見てびっくりしました。私たちのやってきたことは歴史の一部を作っていたんだ、、、と。
そのことがきっかけで少しづつ世界が変化してきたんだ、、、と。その当時は全くわかりませんでした。
だから”今でこそ充分やりきった”なんて言えるけど、、、、そのプロセスでは落ち込むことばかりだし、無力感と敗北感、虚しさでいっぱいでした。
でもそこから多くを学びました。
「ゴールはずっと先にあるんだ」ってこと。
「焦らなくてもいい」こと。
「全ては次へと、未来へと繋がるプロセスの中にいるんだ」ということ。
「自分が投げた小石は水の中に落ちてゆっくりと周りに輪を広げていく」こと。
そして「自分が蒔いた種からはどれだけの実がなるか?なんて予想できない」こと。
「それでもひたすら種を蒔き続けたい自分がいる」こと。
たくさんのことを学び、経験しました。
諦めずにね、自分のできることをやり続けるってことかなぁ、、、、と。
だからね、世界は大きき変わらなかったけど”やり続けた自分は大きく変わったんじゃないかな”と。
かつては外側にばかり目を向けていたし、なぜ?なぜ?って思っていたけれど。
今はね、何か起きたらまず「自分を見つめようと思うし、自分を変えようと思う」
自分すら変えられないのに世界なんて変わるわけないし。
誰かがいいとか悪いとかじゃなくて、自分はどうなんだろう?って思う。
そして自分を見つめて、自分を変容させていく。
とっても難しいけれど、少しづつ自分の在り方が変わっていくことに喜びを感じられるようになった。
他人のせいにするのではなくて、自分の在り方を変える。
今はそのプロセスかな、、、と思って楽しんでいます。
いま、私がたどり着いた集大成が「森の子どもたちのマザーツリーになるプロジェクト」という北海道での森の再生です。
あ〜長くなっちゃったけど。
読んでくださってありがとう。
あなたもきっと素敵な「物語」を生きているはずです。
あなただけの。


