人生は全てプロセスの中にある・苦しい時も未来への通過点にしか過ぎない

こんにちは。天海和美です。

昨夜遅くブログをアップしたら10分もしないうちに記事を読んでメールを送ってくださった方がいました。


和美さん、長い間お疲れ様でした。
和美さんのように、満足して退職できるように力を入れず、頑張ります。

いつも沢山の大切なメッセージをありがとうございます。

あら、、、こんな夜中に読んでくださったのね、、、と思ったらアメリカの方からだったので、そうかいつもこんな夜中だからみんな寝ているだろう、、、と思って記事のアップを翌日にしたりしていたけれど世界中、時間が違うんだ、、、と目から鱗でした。

それと私の記事を読んでそんなふうに言ってもらえると有難いと思うと同時に、、、。

いや、そんなに人生順風満帆では無かったなぁ、、、と思い出しました。

やりきったとか、自分なりに納得がいくようになったのはここ数年のことなんです。

最初に大学で講義を始めたのは単発で色んな大学の先生の授業でゲストとして話していました。

正式に辞令とかもらって始まったのは2006年頃でした。

最初に教えることになったのは私が「変わった人」だったからなのではないかと思います(苦笑)

私が途上国で働きたいと夢を持ったのは高校生の頃からでした。進学して就職して経験を積んで留学して、それから途上国へ、、、と計画を立てていましたが。結婚してしまっていつしか夢も忘れてしまいました。いや、忘れたんじゃなくて諦めたんですね。

それで子どもも産まれて子育てに忙しくて、新しい仕事も夫と始めたりしてもうそんなことは考えなくなっていました。多分、、、。

ただその頃思っていたのは「私は自分がこの地球に産まれてきたのに何か大事なことを忘れているような、、、やっていないような、、、」そんな気持ちでした。

私はいつも家族が寝静まってから一人で部屋の窓から空を見上げてお祈りしていました。

「世界が平和でありますように。みんな誰もが幸せでありますように」と、、、、。特に宗教はしていませんがなぜかお祈りをしていました。私は何もできない、、、今はできない、、、だから天に向ってお祈りするくらいしかできないと思っていました。

その頃の私はスピリチュアルから目を背けていましたし。

それで父が末期ガンで余命わずか、、、と宣告されて私は渋々、、、、いや、もうこれはスピリチュアルな癒しをやるしか無いんだ、、、というところまできました。それまでは他の人がやるのはいいけれど自分はスピリチュアルなことには絶対に関わりたくない、特殊な目で見られたく無い、普通に暮らしたいと思っていましたから。(結局それは私の思い違いだったと後でわかりました)

父が亡くなった時に私は自分らしく生きようと決意しました。

そこから地球環境問題の勉強を始めました。それで地域で環境のNGOを作りました。(小さな集まりです)

当時はそんな地球環境問題なんて意識している人はほとんどいなくて。東京でさえゴミの分別なくデパートは過剰包装がおもてなしだと思っているし。

だから森林破壊とか地球温暖化とか環境ホルモンとかエコとか循環型社会とか言っても「はぁ?何言ってんの?」って顔されるくらいで危機感がありませんでした。1995年頃の話です。

え〜、でも今、私たちの生き方を変えて地球を破壊しないようにしないともう後がないんだよ〜、台風だって巨大化するんだよ。気候変動で食べ物が作れなくなるんだよ、海面が上がって低地や海岸がなくなるんだよとか言ってもそれはSFでしょ?とか自分が生きている時にはならないとか言われましたね〜。

でね、それを自分の地域で活動して、それじゃ足りないから東京全体でとか、それじゃ足りないから日本全体でとか、いや、地球全体でやらなきゃダメでしょ、、、って私の”思考と行動”はどんどん広がっていったんです。

それで国際会議に行って色んな国の市民たちとも繋がりましょう良〜とか、先進国首脳会議(G8サミット)とか国連の会議とかに行きましょうよ〜って提案して本当に行ってしまうわけです。

(ニューヨーク国連本部前)

こんな基準じゃダメだよね、法律変えましょうよ〜とか言って国会議員とか大臣に会いに行って、提言書出したり、、外務省とか環境省のお役人に会いに行ったり、ニューヨークの国連本部に行ったり、地球サミットで国連事務総長に平和のメッセージを渡しに行ったりとかするわけです。

(国連本部ビルの中)

それ、、、フツーのおばちゃんの発想とはまるで違っていて多分「変わった人」だったんだと思います。

ジェーン・グドール博士と対談させていただいた

アフガニスタンの難民支援を始めてしまったり、アフリカでHIVエイズのホスピスとか孤児院、ストリートチルドレンの支援を始めたりとか。ちょっと違ったことをしてきました。

(ストリートチルドレンの支援で)

(孤児院の支援)

タイでもHIVエイズ孤児の支援を始めたりとか、

そう、そこで気がついたら高校生の時にやろうと思っていた夢がいつしかやっていたんですよね。もう私は子どももいておばちゃんになっていましたが。

私は国連の会議に参加していましたがそれがとっても難しかったので、おばちゃんなのに大学に編入して「国際関係論」とか「英語」を学んでいました。大学で教えている国際関係の講義に出席するとどれも基礎的なことばかりでした。実際の現場と大学の学びは違います。

そんな(変わった)経験があって「大学で環境活動とか国際協力とか支援の実際について教えてほしい」と言われたてそれがきっかけで教えることになりました。(もう一つの理系大学は最初は断りました)

「何を話してもいいし、内容はお任せしますから」ということだったのでこれは引き受けました。

ところが、、、、教える矢先になって私はひどく落ち込むことになりました。これが何年も続きました。
だから私の仕事や人生が順風満帆で満足していたかといえば、全然そうではなくて常に試行錯誤、トライ アンド エラーでした。

だって私がやってきたことで世界は何一つ変わっていない、、、という現実を目の当たりにしたからです。

エイズはまだ拡大していたし、日本政府は気候変動枠組条約にすら調印しないし、アフガニスタンの空爆はずっと続いて地雷が埋まっていて難民は村には帰れないしいるし、森林破壊は止まらないしとか、、、、。外から見たら「そんなこと」って思うかもしれませんが。

その頃の私にとって自分の命を削って本気で取り組んできたことで何も変わらなかったんだという虚しさだらけでした。

だから授業をするのが苦痛でしかありませんでした。

学生たちに希望を伝えたかったのに私自身がすごく暗くて敗北感と虚しさと無力感でいっぱいだったんです。そんなこと私だけの力でどうにもならないのは当たり前ですがみんなも本当に頑張っていたし、世界中のNGOの人たちとかも本気で取り組んでいましたから。

あ〜、やっぱり地球の未来を変えようと努力したけど何の役にも立たなかったんだなぁ、、、、って思っていました。

でもね、、、それが少しづつ変わってきたんだ、、、という手応えを感じました。

あれから10年くらい経ってからでした。(この頃は国際協力・国際看護を教えていました。時代を先取りしすぎていてようやく時代が追いついてきた)私たちがやってきたことが専門書の教科書に載っていました。

それを見てびっくりしました。私たちのやってきたことは歴史の一部を作っていたんだ、、、と。

そのことがきっかけで少しづつ世界が変化してきたんだ、、、と。

だから今でこそ”充分やりきった”なんて言えるけど、、、、そのプロセスでは落ち込むことばかりだし、無力感と敗北感、虚しさでいっぱいでした。

でもそこから多くを学びました。「ゴールはずっと先にあるんだ」ってこと。「焦らなくてもいい」こと。

「全ては次へと、未来へと繋がるプロセスの中にいるんだ」ということ。

「自分が投げた小石は水の中に落ちてゆっくりと周りに輪を広げていく」こと。

そして「自分が蒔いた種からはどれだけの実がなるか?なんて予想できない」こと。

「それでもひたすら種を蒔き続けたい自分がいる」こと。

たくさんのことを学び、経験しました。

諦めずにね、自分のできることをやり続けるってことかなぁ、、、、と。

だからね、世界は大きき変わらなかったけど、やり続けた自分は大きく変わったんじゃないかなと。

かつては外側にばかり目を向けていたし、なぜ?なぜ?って思っていたけれど。

今はね、何か起きたらまず「自分を見つめようと思うし、自分を変えようと思う」

自分すら変えられないのに世界なんて変わるわけないし。

誰かがいいとか悪いとかじゃなくて、自分はどうなんだろう?って思う。

そして自分を見つめて、自分を変容させていく。

とっても難しいけれど、少しづつ自分の在り方が変わっていくことに喜びを感じられるようになった。

他人のせいにするのではなくて、自分の在り方を変える。

今はそのプロセスかな、、、と思って楽しんでいます。

いま、私がたどり着いた集大成が「森の子どもたちのマザーツリーになるプロジェクト」という北海道での森の再生です。

あ〜長くなっちゃったけど。

読んでくださってありがとう。

あなたもきっと素敵な「物語」を生きているはずです。

あなただけの。